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ホンダ1300

 

 

今でこそミニバン専門店のようになってしまったホンダだが、以前はスポーツ車の開発に心血を注いでいた。

本田技研生みの親、叩き上げの技術者本田宗一郎が周りの開発者達と議論を戦わせながら意地で仕上げた車、

そのもっともたるものが、この1300である。

ホンダ1300  セダン

 

メーカー創生期には、メーカーあるいはブランド名にそのまま排気量の数字を付けただけの車名がよくあった。

三菱500,マツダR360、スバル360、スバル1000...後々何十年も新たな車名を産み続けなければならないなどとは

誰も意識しなかったわけだから当然の命名法である。

 

そんな中、ホンダが出した1300ccは異色のものだった。当時はバイク屋、あるいは軽自動車屋としてしか見られていなかった

ホンダが並みの乗用車を出したところで意味がないと思ったのであろう。

FF駆動方式についてはすでに他社が出していたわけだが、問題はそのエンジン。バイク屋として小排気量のエンジンから

いかにして大出力を引き出すかという研究は進んでおり、F−1も手がけていたこともあって普通の4ドアセダンのボディに

1300ccとしては驚きの115馬力。ツインキャブでさえ特別視された時代に4キャブレターである。(クラウンの6気筒2000ccが当時100馬力)

しかも空冷アルミエンジン4気筒という実験的なもので、4気筒のエンジンなら水冷でなければ冷やしきれないという

ホンダ技術陣を振り切って宗一郎自らが決断を下したものであった。

「エンジンは空冷」が持論であった本田宗一郎にとって、持論を周りに認めさせるためにも成功してもらわねばならない1台。

空気で強制冷却させるためにエンジンに多数のフィンを付け、2重構造にまでした。しかし、その結果アルミにもかかわらず

原動機関は重く、その重みのほとんどを操舵輪と駆動輪を兼ねる前輪が負担することになった。

 

ホンダクーペ1300 9S

 

 

200km/h近い最高速を持ちながら、曲がるのは不得意で、パワステが付いているわけでもないため

運転に気を遣う疲れる車であったらしい。そんな話が流れ、売れ行きは良くなかった。ホンダは販促のために

なんと空冷エンジンでF−1に参戦するなどの空冷普及作戦も行ったが結果はやはりふるわなかった。

 

4ドアセダンは本当に大人しいデザインで、素人では運転しきれないという暴れ馬とは誰も思わない。

フロントマスクを見なければ、ブルーバードやコルトと見間違えるほど、ホンダらしい特徴的なものも無かった。

これは敢えて作為的にそうしたのではないかと思われる。「乗って驚いて下さい。エンジンは紛れもないホンダです。」

          というメッセージの意図もあったのではないかと推定する。

 

一方、遅れて出されたクーペはその性能を形に表し、精悍で挑戦的なボディを身にまとっていた。鷹のくちばしの

ような鼻先はイタリアのイソ・グリフォのようにも見え、当時の人気車セリカの対抗馬として一部には熱烈な支持も

           得ることが出来た。

イソ・グリフォ

 

 

しかし、肝心のセダンが売れないのでは商売としては成立するはずもなく、宗一郎の持論は市場に受け入れ

られないことがはっきりした。ホンダはやむを得ず、水冷化し、ごく普通の性能にダウンした145シリーズに

代替えをし、市場の反応を伺ったが果たせず、ホンダ1300は宗一郎の自信と共に消え去っていくのだった。

 

 

TOYOTA  NISSAN  MITSUBISHI  MAZDA  HONDA  DAIHATSU  SUBARU  SUZUKI  ISUZU  

 

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