スバル初の普通車P−1(試作車:昭和29年)
1971年、スバルとしては久々の普通車が登場した。スポーツイメージから売るため
クーペの先行販売。レオーネの誕生だった。翌年、4ドア、2ドアのセダンとバン、更に
1973年には2ドアハードトップまで加えてオープン以外のありとあらゆるボディタイプが揃えられた。
加えて丸目2灯と4灯の2種の顔つきが用意され、1車種でありながら多くの選択肢があった。
2ドアセダン/ハードトップ
4ドアセダン2灯/4灯
エステートバン4WD
そして、後年の日本車に大きな影響を与えることになるエステートバン4WDが登場する。
元はといえば、乗用4駆は市販車目的で開発されたわけではなかったようだ。東北電力が
冬季の設備・施設見回りのため4駆バンを富士重工に発注したのが始まりといわれている。
当時は4輪駆動といえば、ジープ類の特殊車両という捉え方をされており一般の人が乗るものとの認識はなかった。
しかし、富士重工の努力により4駆化による重量増や操作性の悪さなど、多くの点が改善された
市販車は、一般生活での4駆の必要性を人々に認識させるものであった。東北地方など、雪国の
積雪時には当時一般的だったFR車は脆弱だった。また駆動輪に加重がかからずふらつくため、
トランク内にブロックや砂袋などの重量物を入れなければならないなど、
降雪のない地域で設計された車たちは雪国では悩みの種を多く抱えていた。
群馬に工場を持つ富士重工は、雪国にも多くの消費者がいることに気づいた。いつまでも
積雪のない地方の価値観に従うだけではなく、必要とされているものを掘り起こして作ることを
決心したのである。その答えが1975年発売の4WDセダン。雪国以外の人は「セダンに4駆」を
奇異な眼で見たようだったが、雪国ではこれは心強い「生活必需品」であった。今ほど除雪も
行き届かない道で、あちこちに立ち往生する車たちを尻目に走り回り「4駆のスバル」を印象付けていった。
4ドアセダン4WD
機能では人気のレオーネも、登場から8年同じ形ではさすがに限界であった。度重なるマイナー
チェンジを受けてはいたが、だんだん田舎臭さに磨きがかかるような状態で、決して成功したとは
言えないデザインの変更だった。元々ボンネット、オーバーハング共長く、車内は広くなかった設計
だったこともあり、居住性の向上も必要とされていた。実際所有した人の話では、「ハンドルが体の
中心からだいぶズレてセットされている」との指摘もあり、運転しやすい車ではなかったようだ。
リアスタイル
次のレオーネは1979年に現れた。ボディは拡大され、従来1200〜1600だった排気量も
1800まで増加した。ボディタイプはハードトップとセダン、そして新たにスイングバックと名付け
られた3ドアハッチバックが加えられ、クーペは省かれた。この時すでに豪、米向けにブラット
と名付けられたトラックが輸出されていたのだが、これは残念ながら国内販売はされなかった。
2代目レオーネ
その後、のちにスバルのドル箱になるツーリングワゴン(バンではない)の初代が追加され、
それぞれに4WDが用意された。さらにモデル末期にはターボも現れ、水平対向を初めとするスバルのセールスポイントがここに揃った。
1984年登場の3代目
3代目ともなるとスバルのデザインも垢抜けしてきた。当時流行の直線基調のボディは
あっさりとまとめられ、4WDを意識させるものではなかった。富士重工としても雪国の
田舎専用車という一般のイメージを覆したかったのだろう。一方遅れて出されたワゴンは
「どこにでも行ける」という感じの多目的車のイメージでまとめられていた。ワゴンとバンが
まだ同一視されていた時代にあっても商用車とは違う何かを一般の人に訴えるものであった。
1989年に富士重工渾身の意欲作レガシィが誕生するまで、レオーネはその役目を十分に果たした。
水平対向、4WD、ツーリングワゴン、ターボと、現在の富士重工の基礎を固めた車であった。セダンを
残しレオーネは消えていったが、実質上レガシィは格上であり、後継車はその後生まれたインプレッサということになる。
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