パブリカ

 

1960年代初頭、日本国内に乗用車を普及させるための通産省による「国民車構想」に対応して

いくつかの乗用車が開発された。三菱の500、スバルの360などもそれにあたるが、トヨタの回答は

この車であった。趣旨に添った形で車名も懸賞付き一般公募、決まった名前も「パブリックカー」の略で

「パブリカ」。まさに国民車であることをアピールする出生であった。

 

パブリカ700(28馬力)

 

愛嬌のある顔立ちに700ccのエンジン。4人乗りで38万円と、軽自動車に匹敵する低価格ながら

一回り上のボディを持ち大ヒットが期待されたデビューであったが、低価格化のために内装、装備

全てが簡素化され過ぎ、乗用車を持てるだけでも幸せという当時でさえ、二の足を踏む人が多かった。

トヨタはその評判の悪さに、短期間の内に改善版を出さなければならなくなり、続いてパブリカ800を

発表した。同型ボディであったが、フロント周りには整形を施し、内装も改善した。その結果、販売は軌道に乗り、

コンバーティブルまで発売するに至った。窓枠周り、サイドなどにメッキを施した為、若干ながら上級の印象は出せた。

しかし、それよりも顔の載せ換えをしてきたことが本気の度合いを表している。これは初期型のライト下の平面が

試作車並みの未完成なイメージがあったための変更ではないかと思われる。

 

パブリカ800(45馬力)

 

乗用車の所有さえ夢のような時代にコンバーティブルを持つなど、一般には支持され得ない考えであったが

トヨタはそれを国民車を使って提案した。今見れば空冷(ラジエーターがない!)水平対向2気筒の800cc

エンジンを積んだ4人乗りオープンカーなんて無理しても手に入れたい逸品であるが、当時は非実用品として

の眼差ししかうけることが出来ず、生産台数は伸びなかった。この車を知らない人には「ポルシェのオープンだ」

といってもその類似した顔立ちから案外引っかかってくれるかもしれない。(?)

 

 

軽量、小排気量という性格上燃費は破格に良く、リッター20kmは珍しくなかった。バタバタとおおらかなエンジン音も

慣れれば心地よいばかりで、現代の無個性な音など味気なく感じられるばかりだ。この車が家にあった頃はエンジン音で

車種がわかるほどのものが数多くあったのだった。

なお、この車を基にしたトヨタスポーツ800は、高燃費のおかげで非力ながらレースでは上々の活躍を見せていた。

 

 

パブリカ登場から5年を過ぎた1966年(昭和41年)、カローラが爆発的に売れ始めるとさすがにパブリカの旧態化が

目立ちはじめ、一昔前のデメキン型のデザインは見向きもされなくなった。1969年にはパブリカのデザインもカローラに

準じたものとなり、カローラの下級車種として明確な位置づけが施された。排気量は800−1000cc(のちに200ccアップ)

       という、トヨタ内では最安値、実用一辺倒車種として割り切った存在になっていった。

 

 

 

リヤスタイル

 

デザインは必要以上にカローラを意識しており、しかもカローラを越えた印象を持たせないように

押さえられている。パブリカはパブリカなりにもっと伸びやかな線を描いても良かったと思うのだが、

当時のトヨタの戦略上、主役カローラの引き立て役が必要だったのである。「安っぽいパブリカに比べ

カローラは立派でしょう。」という売り方が為されていたのだろう。

 

 

 

同時期に子会社化されたダイハツではパブリカ同型車をコンソルテとして発売していた。いま流行りのOEMの先駆けである。

 

パブリカスターレット

 

カローラが国産車第1位の好調な売れ行きを示す中、国民車としてのパブリカは御用済みの時代となり、ついに

パブリカスターレットとしてモデルチェンジをうけた。当時、後継車の頭に前型車の名を冠することは習慣であり、

「ベレットジェミニ」「コルトギャラン」など、型替わりの初期には一時的に長い名前になるのであった。間もなく

スターレットの頭からはパブリカの名は消えていった。

 

 

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