S500/600/800

 

 

ホンダの初の4輪車は軽トラックであったが、同じ360ccの2シータースポーツも

計画されていた。S360となるこの車は第9回の全日本自動車ショーにS500と

同時に出品されて期待を集めたが、実際の発売はS500のみとなった。試作のみに

終わったこともあってS360の実車は全て失われ、現存しないと言われている。

 

S500

 

1963年に発売されたS500の製造期間は2〜3ヶ月間ときわめて短く、まもなく

S600に代替わりしている。外観上の変更もなされ、わかりやすいところではS500

より拡大されたラジエーターグリルとそれに伴うフロントバンパーの意匠変更がある。

S800では省かれたヘッドライトのクリアカバーはS600でも装着される場合があったようだ。

 

いずれの排気量でも基本デザインは共通で、デメキン型の古い国産車デザインの名残が

まだ見られるヘッドライト周りは、涙のようなスモールランプも効果的に配置され、精悍ながら

愛らしい表情を生んでいた。また、ヘッドライト上端から後端まで伸びるメッキのラインは

小ぶりの車体を飾りながらスピード感を強調する効果をもたらしている。

 

クーペ

 

S500にはなかったクーペボディがS600に「ビジネスタイプ」として追加され、S800にも

引き継がれたが、オープンボディに比べ頭でっかちのもっさりした姿に見えたこともあり

人気はオープンには全く及ばなかった。リヤテールゲートを備えた実用的な作りであったが

最後期型のS800Mではついに廃止されてしまった。そのS800Mは対米輸出の都合で

サイドウィンカーが極度に大型化されるなど、本来の端正なデザインを若干崩すような

処理がなされていたが、その分安全性は増したと見なければなるまい。

 

S800M

 

S800のボンネットには600までには見られなかった膨らみがあった。

ストロークを増したエンジンの高さが若干変わったことによるものとの推測があった

が、エンジンは直接ボンネット裏面には干渉しないという。そのためこれをダミーの

膨らみとの見方もあるが、当時の雑誌によるとこの車は諸々のレースに引っ張り

出されるケースが多かった。ノーマルでは戦えないためウェーバ−気化器を取り

付けるなどした場合にボンネットに収まらなくなることを考慮しての処理だという。

現在のパワーバルジという呼び方は後付けのものであるのか、当時の表記には

単に「ボンネットの膨らみ」とされているだけで特別の名称は見あたらなかった。

 

 

 

 

走る精密機器といわれるメカニズムや、伝説のレーサー浮谷東次郎が命を

落とす寸前まで乗っていた車であったなど、話題に事欠かないこともあって

現在では珠玉のように扱われているSシリーズであるが、トヨタ2000GTのように

当時からそのような扱いをされたかというと事情は全く異なり、どちらかというと

走り屋によっていじられ、使いつぶされるなど下駄代わりに扱われる車であった。

新車からわずか2,3年で雑誌の売買欄では30万円前後で気軽に売り買いされ

7年も経った車両は「10万円のエスを買って乗る!」などの雑誌の企画に引っぱり出され

いいように加工されていたこともある。新車から10年も過ぎる頃には各地の解体屋に

積まれてしまう車体も珍しくはなかった。幌が切れただけで廃車にするなどの例も

あったようだが、そうやって急速に消費された結果、個体数が急減してしまい、

その後同様のオープンスポーツの後継車もなかったことから昭和50年代に入って

にわかに稀少扱いされるようになった。S800だけでも1万5千台に迫る生産があった

はずでありながら、見直された頃には残存数はろくになくなっていたのである。

 

 

Sシリーズ 1963−70 (昭和38ー45年)

 

 

 

 

TOYOTA  NISSAN  MITSUBISHI  MAZDA  HONDA  DAIHATSU  SUBARU  SUZUKI  ISUZU    

 

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