善意の害毒 1

 

 

現在の風潮として、「環境」、「ボランティア」、「リサイクル」の言葉には誰も反論・否定できないという

暗黙の了解のようなものが成り立ってしまっている。そのため、これらの言葉がいろいろなものの隠れ蓑として機能している例もまた多いのである。

 

 

「電気自動車は環境に優しい」…本当か?太陽光発電で取り出された電気の使用であればまだわかるが

たとえば火力発電で作られた電気であれば、エンジンで石油は燃やしていないが発電段階で同じことを

しているわけだから何故環境に優しいのかわからない。同様に原子力発電なら原発自体を「環境に優しい」

と定義しない限りはそこから発生する電気を肯定できないだろう。

「増税」は許容できないが「環境税」ならまあいいか…。これも「環境」の言葉に目眩ましされる例である。

「環境」というのは大抵、「その当時の人間の都合に合致する状態」のことであり、これまで多々の過ちを

人間に繰り返させている言葉である。「素晴らしい環境に恵まれ」た住宅地が原野を強引に切り開いた

土地に建設されていたり、「環境バランスのため」に鳥獣類が射殺されることなどもよくある。数十年前に

「環境を整える」ために植林された針葉樹林が今になって花粉症を多発させていたり、山の保水力を弱め

たりしている例もあろう。植樹祭などを見ると面白いが、「環境のため」に皇族が数本の樹木をお手植え

するという、たったそれだけの行事ために山ひとつを伐採して会場づくりをしている。見通しが利かないと

警備上問題があるからだそうであるが、数本の木を植えるために数千本の木を伐採することは問題ないのであろうか。

 

人間の住みやすい状態が良好な自然状態と決まったわけではない。「環境のため」という言葉を盲信しては

ならない。信じれば信じるほど悪用されるであろう。「ボランティア」「リサイクル」についても追って述べたい。

 

 

 

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